詩篇11篇

指揮者のために。ダビデによる。

11:1 主に私は身を避ける。どうしてあなたがたは私のたましいに言うのか。「鳥のように自分の山に飛んで行け。

11:2 それ見よ悪者どもが弓を張り弦に矢をつがえ暗がりで心の直ぐな人を射抜こうとしている。

11:3 拠り所が壊されたら正しい者に何ができるだろうか。」

 初めにダビデは、主に身を避けると言い表しています。これがこの詩篇の主題です。主に身を避ける信仰者についての歌なのです。

 彼らは、主に身を避ける者の「たましい」に言っています。この語によって、これが信仰の歩みに関してのものであることがわかります。

 その人は、「鳥のように自分の山に飛んで行け。」と言います。そのことを言っているのは、信仰者を躓かせようとしている人ではありません。第三者の言葉として語られています。

 その人が弓で狙われているので、山に飛んで行けと言っているのです。悪者どもの前で、主に従うような態度を見せずに、自分だけの領域で、主に従って行けばよいではないかと言っているのです。戦いは避けて、静かにしているようにと言っているのです。

 この人は、親切心でその事を言っているように見えますが、彼自身は、正しい言葉を語ることができる人ではありません。親切な勧めのように見えて、彼を躓きをもたらすことを語っているのです。

 矢で射抜くことは、通常神の裁きとして、御言葉により内面を裁くことを表しています。剣は、判別能力を表していて、裁きに適用される時、御言葉により裁くことを表しています。敵対者は、彼が拠り所としていたその人のうちにある拠り所を射抜こうとしていました。彼は、神の言葉を受け入れ、自分のうちに保っていたのです。それを彼らの言葉は、否定することで、たましいを躓かせるのです。

 彼らの射抜こうとしているものは、「誠実」で、神の言葉に対する誠実を彼らの言葉で破壊しようとしていました。正しい人を覆そうとしているのです。

 このことを言う人は、そこまで真理をわきまえていて、その上でダビデに対して鳥のように自分の山へ飛んで行けと言うのです。それは、正しい勧めではありません。神の前に正しく歩むことこそ価値があることであって、周りの状況によって、それを変更することは、決して御心にかなったことではありません。

・「心の直ぐな人」→正しい人の誠実。誠実は、神の言葉に対する誠実。

11:4 主はその聖なる宮におられる。主はその王座が天にある。その目は見通しそのまぶたは人の子らを調べる。

 主が聖なる宮におられることが言い表されているのは、この方が実在の方であることを表現しています。宮は、物理的な存在です。そこにおられる方として表現することで、その方が実在し、生きて働く方であることを表現しています。

 そして、聖なる方であるのです。その判断基準は、俗なるものとは分離していることを表していて、人間的な判断やこの世の基準ではないことを表しています。この例のように、山に逃げることは、人間的な判断です。

 主の王座は天にあります。この方の主権、力を表しています。それは、主の力の偉大さを示しています。この地で、悪者がはびこったとしても、それを裁く方は、天に王座を設けておられる方です。この方の前に正しく歩むことこそ価値あることです。

 その方は、その目で、またまぶたで人の子らを調べられます。天におられる方であるからこそ、それができます。

11:5 主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは暴虐を好む者を憎む。

11:6 主は悪者どもの上に網を下す。火と硫黄燃える風が彼らへの杯。

 主は調べて判定を下されますが、主の御心が示されることになります。この「御心」は、意訳で挿入されたものです。

 主は、暴虐を愛する者の「たましい」を憎まれます。主が問題としているのは、たましいです。たましいが主の言葉に従うかどうかを調べられるのです。

 悪者の上には、罠を網のように下らせます。火と、硫黄と燃える風が彼らの分前の杯、すなわち受け取る杯です。

11:7 主は正しく正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。

 主は正しい方です。そして、義を愛されます。神様の信仰によって神の言葉を受け入れ、御心を行うことが義です。それが神の目にかなうのです。

 直ぐな人は、真っ直ぐな人あるいは正しい人のことです。神の基準にかなった人のことで、御言葉に対して正しく従う人のことです。そのような人が御顔を仰ぎ見るのです。主に受け入れられ、その栄光を拝し、幸いな交わりを経験できます。逆に、御顔から退けられることは、捨てられることを表しています。